蒼玉の都
彼は目を大きく見開いて、きらきらと輝かせながら遠くの景色を眺めている。ひたすらに無言だったけれど、とても嬉しそうにしているということだけはすぐに分かった。
ほんの少し幼く見えるその表情も可愛らしく愛しい。それが恋というフィルターによるものだとしても僕には関係ないのだ。彼が愛しい、それだけで。
こんなにも分かりやすく嬉しそうな表情は滅多なことではお目にかかれないものだから、一種のレアものかも知れない。思い付きも、たまにはいいものだ。
事の始まりは深夜。もう朝方に近い三時近く。彼は大分前に眠っているだろうとは思ったけれど、一縷の望みをかけて携帯にコールした。
場所は彼の家の前、車から降りて彼の部屋を見上げながら。
五回から六回ほどコールしたところで、彼の寝ぼけた不機嫌な声。起こしてしまった申し訳なさよりも電話に出てくれた嬉しさに心躍らせながら言葉を紡ぐ。気取られないように、丁寧に。
「夜分遅くにすみません。今から、一緒に出掛けませんか?」
「ん、んん…い、まから……?」
目が覚めたばかりの彼の声はのんびりとしていて、どこか幼い。それに小さく笑いながら僕は言葉を続ける。
「ええ、今から。実はもうあなたの家の前にいるんですよ」
「…へ、えっ!?」
直後、彼の部屋の電気が点いて、カーテンが開けられる。漏れ出す明かりが逆光になって顔は見えなかったけれど、きっと驚いているのだろう。ひらひらと手を振ってみると再びカーテンは閉まり、電気も消える。
「ちょっと、待ってろっ」
ひそひそと小さな声が聞こえて、通話は切られる。どうやら出かける準備をしてきてくれるようでちょっとだけほっとした。携帯電話はジャケットの胸ポケットに滑り込ませ、車に寄りかかったまま玄関を眺める。
小さな音。扉はゆっくりと開かれて、部屋着姿の彼が隙間から顔を覗かせる。ぴんと跳ねた寝癖がとてもかわいらしい。
「こんばんは。あなたを攫いに来ました」
「……なんだよ、それ」
「言葉通りですよ」
今日は土曜日で、涼宮さんの用事で団活はなし。日曜日まで彼を独占したってい強引に誘っていじゃないか。たまにはも、悪くはないでしょう?
「さ、どうぞ。眠いのでしたら隣で寝てても構いませんよ」
助手席の扉を開いて彼を車の中へ招き入れる。少しだけ緊張したような表情がまた新鮮だ。
「お前…車運転、出来るんだな」
「ええ、去年取ったばかりですけどね」
運転席に乗り込んでシートベルトを締める。じとりとした視線が僕の方を向いていて、何でかとても楽しい気分になった。眠っていない僕のテンションはかなり高くなっているのだろう。
「俺、お前のこと、何も知らない」
「では今から話しましょう。1時間くらい車を走らせるので、その暇潰しにでも」
軽い口調でそう声をかければ彼は余計にぶすっくれた表情になって、何を考えているのかは丸わかりで。寝起きの彼は、ひどく無防備だ。
「じゃあ、話せよ。お前のこと全部」
「ふふ、いいですよ。眠っていて聞いてなかったからもう一度、なんて言わないで下さいね」
「言わねぇよ。目、覚めたし」
彼もシートベルトをしていることを確認して、アクセルをゆっくりと踏む。スローペースで滑り出した車は夜明け前の道を走り出した。
「本当は、帰って寝ようと思ったんです。けれど何故か、急にあなたに会いたくなって」
「……そんなこと聞きたいんじゃねぇよ」
ぶすっとした顔は変わらないままで、耳がほんのり赤く染まっているのが暗い中でも分かる。それを指摘すると後が怖いから何も言わないけれど。
「言う機会がなかっただけなんです。ずっとそれを逃してしまって。けれど車であなたを攫いに行けば、説明する機会にもなるかなって、思ったんですよ」
「それだけのために、こんな時間に来たのか」
「それだけ、じゃないですけどね」
少しだけスピードを上げて、走る。この時間帯の道路にほとんど車の姿はなく、思ったより早く目的地に着きそうだ。
「あなたは僕のことを何も知らないと言った。けれど、知ってるんですよ。僕が言わなかったことなんてほんの一握りです。僕が実は年上で、高校生活は二回目なんだってこと、こうして車が運転できるんだってこと。ほら、これぐらいですよ」
「……」
彼は僕の生活の一部に入り込んでしまっていて。隠していることなんてないようなものだ。彼の知らないことと言えば僕と機関の関係くらいだろうか。ああ、でもきっと一連の騒ぎがあったときには気付いていたのだろう。それを、聞こうとしないだけで。
「だから、疑問に思ったことは聞いて下さい。そしたら答えましょう。どんなことだって、あなたには本当のことを言いましょう。隠していることなんてひとつもありませんから」
「んなこと約束していいのかよ…俺、変なこと聞くかも知れないだろ」
「構いませんよ。何でも聞いて下さって」
ちらっと彼に視線を向けて笑いかけると、ふいと視線を逸らされる。
「……」
そのまま口を噤んでしまって、車の中は無言に包まれる。けれどその沈黙ですら僕には愛しい。彼が隣にいる、それだけで幸せな気分になれるのだから。
しばらく車を走らせていると、空が少しだけ白んでくる。ああもうすぐだ。
「……なあ、こいずみ」
「何でしょう」
「どこ、行くんだ」
彼が顔を向けている方向に見えるものが気になったのだろう。分かっているくせに聞くのだから、ああ本当に可愛らしい。
「見ての通り、ですよ」
狭い道路の向こうに、車を停めるスペースがあった。そこには小さなコンクリートの椅子も置かれている。
「降りましょう。もうすぐ時間です」
「……おう」
車に鍵をかけて、潮風の香りを吸い込む。椅子に座らずコンクリートの塀に手を置いて遠くを眺めた。揺らめく青が深い色をしていて、綺麗だ。
僕の隣で彼は少しだけ嬉しそうに、その景色を眺めている。遠くから緩やかに昇る朝日に、彼の瞳はきらきらと光って。
髪を吹き抜ける風。いつもは眉間にシワが寄っていたり、吊り上っていたりする眉は柔らかに弧を描いて、表情は柔らかだ。
「綺麗でしょう?あなたに、見せたくて」
「……キザなこと言うなよ」
「そう思ったんですから仕方がないでしょう?」
海と、その水平線から昇る朝日。それは壮大なまでに美しくて、心奪われるほどに。その景色を眺める彼の瞳はもっとずっと綺麗で、今にも吸い込まれそうだ。
「何か言いたいこと、あるんじゃねーの?」
「……ええ、あったんですけど…まだ先の話なので今度にしましょうか」
どうして分かったのだろう。彼の洞察力にはいつも驚かされる。いつでも心を見透かされているようで。
「言えよ。隠してることなんて、ないんだろ?何でも聞けって言ったのはお前じゃねぇか」
また不機嫌そうに顰められる眉に思わず笑みが零れる。どうして彼はこんなにも可愛いのだろう。こんなにも、愛おしいのだろう。
「来年の、いえ、それより先。僕たちが卒業したら、……僕と一緒に暮らしませんかと。そう、言いたかったんです。どうでしょう?」
「……どう、って…そんなの」
彼は再び視線を遠く水平線に向け、そっと僕の服の裾を掴んだ。その仕草に心臓が大きく鳴る。
「お、俺が断ると、思ってんのかよ……」
「…っ」
思わず彼を引き寄せ、力いっぱいに抱きしめる。この人はどうしてこんなに僕の感情を揺さぶるのだろう。嬉しい、幸せ、愛しい、いとおしい。
「古泉っ!いた、痛い!」
「すみません…っ大好き、大好きです愛してます!」
「わ、わかったからっ」
彼は腕の中でしばらくもがいていたが、力を緩めないと分かったのだろう、ゆっくりと僕の背中に両腕を回した。
「一緒に部屋、探しましょうね」
「おう」
「大好きです」
「…おう」
「僕とずっと、一緒に生きて下さい」
「……あ、ぁ…おう」
その後はひたすらに黙っていたけれど、彼は大人しく僕の腕の中にいた。
ああ、なんて、幸せなんだろう。
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彼には家に電話をさせて、さあ攫う準備は完璧だ。明日までずっと僕と過ごしましょう?
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