木犀花
しっとりと濡れたシャツが体に貼り付いて気持ち悪かった。風は冷たく、辺りはまるで霧が出たときのようにほんのりと白い。
重たい空の下、ぶわりと広がる甘い匂い。金木犀の木の下で、俺たちはキスをした。
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気付けば大学生活も終わりに近く、卒論の大変さを嘆く時期がやって来ていた。
就活が終わってないやつは様々な企業に挑むためほぼ毎日のようにスーツを着て歩き回っている。そんな俺はラッキーなことに早々に就職が決まった方なのでのんびりとした夏休みを送ったものだ。
その代償が卒論に追われる時間、というわけだ。全部仕上げてから提出するというわけにはいかず、まずテーマを提出し許可を得たら資料を集め、文章を構成していく。そして何日までに何千字仕上げて提出しろという命令が下る。こつこつと書き溜めていたやつは何事もなく提出を終了するのだろうが、俺は宿題はぎりぎりに徹夜で仕上げるタイプだ。要するに今回の卒論でもそう、というわけ。高校生の頃は楽だったなぁと思いながらもどうにかこうにか仕上げ、提出を今しがた終えたばかりだ。
俺はやりきった。今日はもう眠ろう、疲れた。
若干ぼーっとした頭で空を見上げる。霧雨のような細やかな雨は十月の空を白く染め上げ、空気を一気に冷やしてしまう。まるで冬のような澄んだ空気は湿気を感じさせず、いっそ綺麗だとさえ思えて。
ああ、傘を持って来ていない。一歩外に出ればふわりと肌に当たる程度の雨が全身に降り注ぐ。このぐらいなら何とか帰れるかもしれないと思ってそのまま雨の中に身を投じた。
しっとりと濡れたシャツが徐々に重みを増して、肌に張り付く。最近一気に視力が落ちてかけるようになった眼鏡が車のフロントガラスのように水滴で濡れて、前は見えなくなる。ふちのないシンプルなそれを外し、折りたたんで胸ポケットにしまい込んだ。
自転車に跨り、ペダルを踏んでぐっと漕ぎ出す。肌に当たる雨は心持ち強くなるけれど、ずぶ濡れになるほどでもないだろう。
大学の敷地内から出て、通い慣れた道を進む。雨の音もしないほんのりと白い光景の中は、とても静かだった。
ふ、と横を通り過ぎた瞬間に強く香るものがあって、思わずブレーキをかけてその場で止まる。地面に散った小さなオレンジ色の花。広がる甘い匂い。
金木犀の木が、そこにはあった。
香りと人間の記憶はよく結び付けられる。香りは昔の強い記憶を引き出しから引っ張り出すのだ。
「……思い出したく、なかったな」
あの日も、こんな雨だった。
学校の帰り道、二人だけで歩いた道。傘は持って来ていなかったけど慌てることもなさそうだからとのんびり歩いていた。
他愛のないことを話した。もう話題は覚えてないけれど、楽しかったんだと思う。高校三年生の、秋のこと。
SOS団は解散はしていなかったけれど三年生の部活動の引退に伴って活動を休止しているも同然の状態だった。たまに召集はかかるけれど、滅多にない。だから俺も、古泉と話す機会は本当に少なくなっていて。
久し振りだったんだ。二人だけでのんびりと過ごすあの空間が、なくなって初めて大切だったんだと気付いて。それと同時に、相手への気持ちにも気付いて。
俺は古泉が好きだった。恋愛感情として、好きだった。穏やかな気持ちだったんだ。胸を締め付けられるような切なさも、一目見るだけで幸せだという甘さもなかったけれど。
ふ、と古泉は立ち止まった。雨は止みそうにもないけれど、強くなることもないだろう。だから俺も古泉と一緒に、その場で立ち止まった。
甘い甘い香りがする。
「金木犀でしょうか」
秋の香りを嗅ぎつけて、俺たちは真っ直ぐ歩いてきた道から外れた。
公園の片隅、小さな金木犀の木。それはオレンジ色の可愛らしい花を付け、雨の中でさえ香りをふわふわと広げている。
「もう秋だもんな」
足元には彼岸花が咲いていて、赤い花を緩やかに揺らしていた。
しっとりと濡れたシャツが体に張り付いて体温を奪って行く。まだ気温はそこまで下がっていないとはいえ、雨が降ればそれなりに寒くなる。このままここにいても風邪を引くだけだろうと古泉の服の裾を引っ張って制止を促した。
くるりと振り返った古泉は俺としっかり向き合って、じっとこちらの顔を覗き込む。一体何だろうと俺も負けじと見つめ返す。古泉の後ろに重くのしかかる雲と、白く染まる景色、オレンジ色の花。小さく笑う気配がして、ぐっと整った顔が一気に近くなった。
広がる甘い香りと、違う香りが混じって鼻を麻痺させるかのように強く残る。そっと触れてすぐに離れた柔らかな感触は唇以外の何物でもなくて、俺は驚きに言葉を発することさえ出来ず。
「帰りましょうか」
そう笑ってまるで何もなかったかのように振る舞う古泉に対して、慌てて返事をするしか出来なかったのだ。
その後、卒業するまで俺たちの関係は何も変わることなく。キスした事実さえ、お互いの中でなかったことになっていた。今となってはもう忘れてしまうくらいに。
霧雨、金木犀の強い香り。甘く蘇る記憶は、ほんのりとした苦味さえ感じさせて。
ポケットの中で電話が振動し、長々と続くそれに電話かと思いながら画面を覗き込む。
タイミングがいいのか悪いのか、そこに表示される名前は今しがた回想していた中にいた人物。
「……もしもし」
多少気まずいながらも実に三年振りになる電話に対して無視をするという選択肢など存在しなかった。
電話の向こう側から聞こえる声は優しく、甘く、金木犀の香りと同じ。高校生のときのあの感情が更に強く蘇って胸を締め付ける。
あの頃は穏やかだった感情も、今となっては二倍にも三倍にも膨らんで、恋と言ってもおかしくないほどに成長した。もしかしたら気付いていなかっただけで、既にここまで成長しきっていたのかも知れない。
『今、どちらに?』
俺はその場に自転車を止め、鍵をかける。そして公園の中に入って香りを放ち続ける金木犀の横に立った。昔の記憶のまま、そこに存在する木。可愛らしい花は幾分か散ってしまっているけれど。
「金木犀の、木の下」
足元にしゃがみ込んだらやっぱり彼岸花は赤く鮮やかな花を揺らしていて、上に雫を乗せきらきらと光っている。
古泉からの返答はなかったから、そのまま通話を切った。一緒に電源も落としてしまって、再びポケットの中にねじ込む。
俺は何を期待しているんだろう。けれど今のこのタイミングでの電話。俺の立っている場所。変わらなかった関係が、変わるような気がして。
ふわふわと散るように降っていた雨が、しとしと落ちるようになる。髪から雫は滴り、服も絞れば水が零れるくらいに濡れている。さっきの電話からそんなに時間は経っていないはずなのに、ずっとここにいるような気さえしてきた。
「風邪、引きますよ」
後ろから声がした。振り返らなくても分かる。さっきまで電話をしていた人物。この場所が分かったってことは、古泉も忘れてはいなかったのだろう。あの日の、あの一瞬を。
傘に当たるような水を弾く音は聞こえないから、きっと古泉も傘は持っていないんだろう。何やってるのかな、俺たちは。若さをこじらせたとでも思っておこうか。
「卒論の第一回目は提出して、彼女だっていないしバイトも明日と明後日はない俺は今風邪を引いても痛手にさえならんのだよ」
「ふふ、そうですか」
後ろから腕を掴まれて、その力強さに驚き振り返る。けれど古泉の顔は見えず、気付けば相手の腕の中にいた。柔らかい茶色の髪が頬に当たって少しくすぐったい。花とは違う甘い香りは変わっていなくて、肩の力が抜けた。
「じゃあその明日と明後日を、僕に下さい」
きゅうきゅうと抱き締められて自然と瞼が落ちる。雨で冷え切った体温さえ愛しくて心地よくて。
「たったそれだけで、いいのか」
お前は控えめだな。いつだって、あの時から変わることはなく。
一瞬息を飲む音がすぐ隣から聞こえて、抱き締める腕の力は強くなった。ほんのちょっとだけ、痛い。その痛みも嬉しかった。重なった心臓の音の速さはもうどっちの音なのか判別さえ出来ない。
「いいえ……本当は、全部。これからのあなたの時間、全てが欲しい」
俺は宙ぶらりんだった腕を古泉の背中に回してほう、と息を吐く。古泉の緊張して力の入った肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「お前にキスされたあの日から、全部お前のもんになってるよ」
雨脚は強くなる。さわさわと揺れる金木犀の香りも一緒に強くなって、足元はオレンジ色に染まっていく。
全身を余すところなく濡らして笑って。重たい空の下、ぶわりと広がる甘い匂い。金木犀の木の下で、俺たちはキスをした。
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やがて、冬が来る。隣には古泉がいる、冬が。
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